ガリバートンネルは実在する-何なら私も持っている-

ガリバートンネルをご存知だろうか。知らない人のために説明しておくと、漏斗のような形をしたトンネルで、大きい口から入坑して小さい坑口へ向かうと、縮尺数十:1の小人サイズになって外へ出るという代物である。遊んだあとは来たときの逆に進むことで、もとの背丈に戻ることができる。ドラ夫のポケットから出てくる秘密道具として知られているが、宮内庁にも数点現存するという。

 

そんなガリバートンネルの作用により自身が小さくなった結果、自分以外の森羅万象が(相対的に)大きくなる。庭の玉砂利はさながら巨石、日頃のそよ風はF5の竜巻である。

 

原付に乗ったときとまるで同じではないか。

 

原付バイクは非力である。CVTを備えるスクーターは多少はマシだが、我が愛車、殷の時代から設計が変わっていないスーパーカブの加速は鈍いことこの上ない。60km/h30km/hまで加速する間に平均して3回、多いときは5回のワールドカップが開催されている。なお江戸時代末期には改元が頻繁に行われた(万延(1860-61),文久(61-64),元治(64-65),慶應(65-68))が、これはすべて孝明天皇のギアチェンジによるものである。また明治以降はスクーターを使用しているため、天皇在位中の改元は行われない。これを一世一元という。

 

さて一度その頼りない非力に身を委ねると、世界の解像度は段違いに跳ね上がる。エアコンの効いた扉の向こう側ではノイズ、若しくはノイズ未満でしかないこの世のディテールが否応なく乗り手を包み込む。溢れる刺激は味覚以外の四感にフル稼働を求めるが、それこそが妙味である。

 

刈り払った道端の青臭さ、僅かな傾斜、交差点の横にある工場から漂うリポDの香気。自分の内側に鋭敏な感覚があったことに驚きを禁じえない。東の空に浮かぶ巨大な満月に気づいた暁の快感はその最たるものである。車では力が大きすぎる一方、自転車・徒歩ではスピード感に乏しい。自動車の速度感で街歩きができるという、多くの人が体験したことのない世界(のサイズ)観を与えてくれるのが原付なのである。陳腐化した日常を再度活性化させるという意味で、原付バイクは全くガリバートンネルに等しい。

 

長々と書いたが、歩いて5分のコンビニへ車で移動する田舎者共には受け入れていただけるだろう。一方、電車とバスで全てが事足りる都会人には些か理解し難い視座だったかもしれない。腑に落ちたあなたは立派な田舎者である。あしからず。

注:リポDの香気が漂う交差点は実在する。国道122号、埼玉県羽生市の小松台交差点のすぐ横に鷲のマークが輝いており、初めて気づいたときは甚く驚いたものである。

患者のヨウダイが・・・

本投稿の意図は「容態」と「容体」のどちらを使うべきかについて、自分なりに情報を整理することです。従い学術的不正確さを多分に含み得る点ご了知願います。調べるまでは「容態」が正で「容体」は誤、と決めてかかっていましたがどうやらそうではないようです。

 

1. 岩波国語辞典第7版第1刷では:併記

(以下引用)

【容体・容態】外面に現れ、見て取れる様子。

ア. ありさま。身なり。

イ. 病気やけがの様子。病状。

▽「ようたい」とも言う

(以上引用)

 

2. 共同通信社記者ハンドブック13版では:容体に統一

(以下引用)

(容態)→容体

(以上引用)

 

(記者ハンドブック:用字の手引き。送り仮名や、漢字ではなくひらがなを用いる語、などについてのガイドラインの一種)

 

3. 大修館古語林初版第6刷では:併記

(以下引用)

【容体・容態】(「ようたい」「ようてい」とも)

姿。なり。体つき。また、ようす。事情。

(以上引用)

 

4. 増補 字源 第236版:別記

(以下引用(旧字体新字体に改めました))

【容態】

○ヨウタイ ようす、なりかたち。蘇軾文「天真雅麗、ーー温柔」

○ヨウダイ 国(日本のみで通用する訓義を示す記号) 病気のようす。=容体

【容体】

○ヨウタイ すがたかたち。

○ヨウダイ 病気のようす。

(以上引用)

 

以上を整理すると、

「容態」に病気の様子という意味を与えたのは日本独特のものである

「容体」にも病気の様子という意味が備わっている

ということで、「容体」と書くのがどうやらベターなようです。

 

容の字が「すがたかたち」という意味であるから、近い字義の「態」のみを正と考えていたが、ヨウダイを「体の様子」と考えれば容体が尤もらしいということで、今後はこちらに揃えることにします。

教員の待遇について

 教員の待遇というのはあまり良くない。初任給であれば、基本給自体は大卒総合職と同程度でなかなかの額が出るのだが、問題は時間外手当、所謂残業代である。詳細はご自身で調べていただたいが、一律基本給の4%を手当としている例が多い。

 

 仮に基本給を220千円とすると8.8千円程度の手当が出ることになる。これが何時間分かといえば、まあ学校の先生が最低賃金の労働をしているわけはなかろうから880円で見積もって10時間。1100円で見積もって8時間。この程度の額である。月の時間外労働がこの程度で済むのであれば、次のような調査結果にはつながらないはずである。

 

 PISAの調査によれば、先進国の教員の中で最も働いているのが日本の教員である。加えてそれが「校務」に費やされているため、子どもの様子の捕捉、対応に時間を割けないのだそうだ。

 

 なお民間企業に於いて正当に時間外労働としてもらい得る額>手当となった場合は違法である。(このような企業は非常に多いが)

震災一考<散見される「ある言葉」について>

新年最初の記事が4月、しかも世間への批判という体たらくですがどうかお許し下さい。
先日発生した震災で辛い思いをされている方、一日も早く元の生活に戻れますよう心からお祈りさせて頂きます。

熊本の皆さん頑張ってください。頑張れ。

・・・などとは私は微塵も思っておりません。
この「頑張る」という言葉こそ、私が批判したい「忌々しき言葉」であります。
手元の岩波国語辞典(第七版)を開いてみると、307頁にがんば-る【頑張る】の語について次のように書いてあります。①忍耐して、努力しとおす。気張る。「よくー・って見事に仕上げたものだ」 ②ゆずらず強く主張し通す。「ー・って言い返す」 ②の由来は「我張る」(がはる)でありますから、震災などの際に馬鹿が挙って使うのは①の用法であるかと思います。

「頑張れ」という言葉はすなわち、「苦境に耐え、努力を続けろ」とでも書けますでしょう。私には、これが震災の被害者へ向けるにふさわしい言葉であるとは思えないのです。家財をはじめ様々な被害を受けた人々の感情は悲しみや泣きたい衝動に支配されている、これは想像に難くありません。であるにもかかわらずそれを肯んずることなく「その苦境に耐えろ」などと言うことは畜生の所業以外になんと言えましょうか。

被災者が「みんな頑張りましょう」というのでしたらそれはまだ筋が通ります。傷を負った者同士の励まし合いと解釈すれば分からないでもありません。しかし外様の、何ら被害も受けていないような輩が「頑張れ」などと言おうものならそれは私からすれば「泣くことも許されないと?」としか感じられません。

・・・2011年の東日本大震災で若干の被害を受けた僕の愚痴です。「頑張れ」というのはせいぜい、その忍耐が一瞬で終わるような「子どもが予防注射をするとき」だとか、「子どもが徒競走で精一杯駆けているとき」に使うべき言葉だと私は考えています。そしてむしろ「いやあ~これは僕頑張りました」だとか、「◯◯さん頑張ったね~」などのような、自他の肯定をする際に積極的に使って欲しい言葉だと思います

最後になりましたが、被災された方々(東北方面の未だつらい思いをされている方も含んでいます)に、一日でも早く元の生活が戻ってくるよう心からお祈りさせて頂きます。